「理念」と「現実」

「理念」を語ることは必ずしも悪いことだとは思わないのですが、やはり直接の利害関係でつながっていない対象については、どうしても見落としが多くなり、その姿に事実よりも願望の占める割合が高くなることを避けられません。

もちろん、直接の利害関係で結ばれたものだけが「現実」であって、それが「理念」に勝る、というような思考は短絡的で貧困なものですが、私たちは、自分を脅かす「敵」、たとえば、自分がインパラで同じサバンナにライオンがいるようなとき、ライオンについて議論するよりも多くライオンの動きや姿を見ようとはするでしょう。そこには、甘い見通しや願望の入り込む余地はありません。

ただし、それでもなお、一見非合理に思えるリスクに身をさらしながら、理想をおくことはありうると思います。逆に、そうでなければ(つまり、ただ生存可能性の高低だけが「現実」であるなら)私たちはなにも人間なんて面倒な生き物の面倒な生き方を無理にすることはないでしょう。

むしろ、人間やその社会が、「要するに○○でしょ?」と言えないような面倒な生き物で、厄介な存在だ、ということもまた現実であって、しばしば「過酷な現実」と称される過度の単純化も、願望の投影と同程度に、見落としているものが多すぎるというだけなのですが。

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閑に大声

退屈を持てあまし、現実が理念にすりかえられ、その虚偽を内心理解しているとき、人は声高になります。

黙れ。通らなくても誰にも言われなければ通ったのと同じことだ。それが何か?

そうなのですか? 誰にも? 本当に?

うるさい死ね。

…こうした場合、彼は間違っているわけではありません。ただ、「私」が言葉になり、概念になった瞬間、指し示そうと思ったものとは別のものになってしまうのです。

「AでもBでもない」は言葉になった瞬間に新たな「C」と呼ばれてしまいます。「AでもBでもCでもない」は「D」に。以下、そのくりかえしです。

完結した言語空間とは「私が対象化して切り取ったものすべて」つまり、切り取られているのに全体であるということを前提しているためです。それこそが、言葉そのものと言っても良いくらいです。

つまり、「あなた」や「他の誰か」ではない「私」を言葉で指し示すことはできない。そして、そのことが納得できないために黙っていられないのです。

退屈は人を饒舌にします。退屈なうえに饒舌な人は、理念を排して現実を探るのが良いです。

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ひとりごと

・いろいろなことにすっかり嫌気が差してしまって、とてもニヒリスティックでよくない状態。かように人間はフィジックスの奴隷なのです。

・自ら議論をし、あるいは誰かの挑発に乗ることきには、品性を常に省みるべきなのです。場合によっては、そもそも相手の土俵に乗らないことが何ごとかを語るわけです。

・たとえば、小泉批判をしたいならB層という言葉を使うべきではないのです。造語とはスキーマを集約したものです。とりわけこうしたバズワードめいた造語を共有するということは、ろくでもないスキーマを共有するという行為にほかなりません。

・政治について語ることも、自身の不幸について語ることも、獲得した象徴資本の誇示に成り下がることは少なくありません。理解したいのか、伝えたいのか、見せびらかしたいのか。自分自身の監視の目はえてして甘いものです。

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タイトルなし

http://www.yomiuri.co.jp/feature/20081208-188927/news/20090117-OYT1T00768.htm

こんなくだらない文言を決議と称して採択するなんて、いくらなんでもあまりに筋が悪すぎる。「無能なトップを放置するほうがよほど愛党精神を欠いている」という切り返しをされるのが目に見えている。

愛国とか愛党とか愛社とか、その定義が曖昧で死ぬほど controversial な単語が、ある特定の言動を指し示す場合、何も考えられていないか、何も考えないことを求めているかのどちらかと思ったほうが良い。

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理不尽な怒り

6年前に、私は大切な友人の一人を事故で失った。その次の年に、私の母は自ら命を絶った。私はずっと暇さえあればそのことばかりを考え続けてきた。いまだにあれらの死がいったい何なのかはわからない。それでも私の中で根本的に何かが変わらざるを得なかった。

そして、共通の友を失った他の友人たちが、まるで他人事のように私の話を聞く姿を見るにつけ、私は言い知れぬ深いいらだちを覚えるのだ。きっと、彼らにとってはあの死は死ではなく、ニュースや新聞で見たどこかの遠い他人の出来事とそう変わらぬ程度のことでしかなかったのだろう。

そういった詰問をすると、感じ方は人それぞれであって、誰もが同じように考えるわけではないだとか、私の発言が「倫理的」なパターナリズムにすぎない、といった返答をされるのだが、私には、他人事ではない出来事について、そのような言葉を吐くこと自体がありえないと思っている。そんな、ちょっと気の利いた小学生でも吐けそうな薄っぺらな屁理屈に、一体全体どんなリアリティを感じろというのだろうか。

私ごときの生乾きの見識などどうでもいい。世界には自分の力ではどうしようもないこともあるし、どうしなければならないという決まりがあるわけでもない。なにより、私には他人の本当の心などわからない。それでもなお、彼らもまた友人を失って何ごとか思うところがあるなら、私がそれをまりっきり感じ取れないということはないはずだと思えて仕方ないのだ。沈黙ならその沈黙の表情の中に、饒舌なら饒舌の中に、いずれにせよ、思いがあるならその形はおのずと見えてくるはずだ。

そもそも、彼らの返答は、いつも「私の言葉に対する反応」でしかない。私が正しいとか正しくないとか、そんなことを聞いているんじゃない。彼らの答えはまるで見当違いだ。ただ単に、目の前で言われたことに、その場で反応しているにすぎない。

私は、意見を認めろとか尊敬しろとか、そんなことを言いたいわけじゃない。ただ、彼らが何を考えたのかを聞きたいだけだ。もし考えたことがないのであれば、きちんと向き合って考えるべきだと言いたいだけだ。彼らは、それを考えることが苦痛だから、私に何か言い返して、それで事を済まそうとしているだけに見える。その小賢しい怠惰、惰弱、不誠実は、私にとって理解不能で、恐ろしく不満なものだ。

そして、なにより一番わからないのは、私自身、なぜそのことにここまで怒りといらだちを覚えるか、ということなのだ。

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Tamiflu

初めて処方してもらった。

異常行動以前にそもそも行動不能だったのであまり困らなかったけれど、たしかに意識は混濁するようだ。自分は眠る直前まで時間を確かめる習慣があって、いつもなら目覚めた時点で自分がどれくらい眠れたのか、発熱していてもおおよそわかるのだけど、それがさっぱり思い出せない。

もともと子供の頃から高熱の出やすい体質なので、病床で意識の乱れる状態には慣れているのだけど、これはむしろアルコールを採りすぎて前後不覚の意識状態に近いような気がする。

なんにしても、今週は平日がほとんど全部つぶれてしまった。

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問題にとりくむ、という問題回避法

閉じられた空間で熱心に議論すること。

なにも、他人を斜めから見おろして冷笑したいわけじゃないのです。それが必ずしも無意味なことばかりだと思っているわけでもありません。それでも、はてな村だとかmixiコミュだとか、あるいは自分のリアルでの環境とか、さまざまな場所で無限に繰り返されるそうした情景に、そこに自分が参加していようがいまいが、ときどきどうしようもないほどの苦々しさを覚えるのです。

「祈りをささげるときには座ってするべきか横たわってするべきか」といった類の、パリサイ人的な論争は、当人たちが重要だと考えていることの外側にある、(おそらく本来とりくむべきであるような)よりクリティカルな問題に触れることがありません。

われわれの中にいる「怠惰な働き者」は、もっとも気の重いことを巧妙に避けて、やりやすいことばかり熱心にやろうとします。つまり、ものを考えたくないときには、「議論」もまた、思考停止のための方便にすぎないことがあるのです。

それが「より重要な何か」をサボるための口実にすぎないかどうかは、その行為にどれだけの人数が真剣に血道を挙げているかということとも、そこにどれだけ立派な理論武装があるかとも、社会通念上そしりをうけずにすむことかどうかとも、まったく関係のないことで、行為の渦中にある当の本人が判断するしかないことです。

このことは、その行為が「議論」でも「仕事」でも「勉強」でも、その対象が「サブカル」でも「企業」でも「天下国家」でも、あるいは他のどんなことであっても変わりません。何であれ、そういう意味で「安全」なことなど存在しないので、それがいつのまにか「なにかをしないで済ますための方便」に成り下がっていないかどうかは、自分で監視するよりほかありません。

この判断ができるのは本人だけなので、そこには「一般論」も「基準」もありません。しかし、それでもなお、白熱しすぎる論争に過剰にコミットすることは、この意味でしばしば非常に疑わしいものであり、たまに距離を置いたり口を噤んだりして、自分たちの頭に冷水をあびせてみるべきじゃないのか、と叫び出したくなるのです。

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差別は差別を発見できないという発見

「大学を卒業していることは差別なんじゃなくて、資格のようなものだと思うんだけど」

おお、すばらしい! そいつはどこに出しても恥ずかしくない立派な差別的発想ですね!

その「資格」って、いったい何の資格なんでしょうか。資格というのは、それを得ている人はその対象となっている「何か」を「してよい」ということですから、資格のない人はその「何か」を「してはいけない」わけですね。

さて、どこそこの大学を出ている人は何を「して良い」のですか? そうでない人は何を「してはいけない」のでしょうか?

その対象が具体的でない、あるいは、対象があってもその因果関係に合理性がないこと。それにもかかわらず、実質的には厳然と差をつけること、そのことを当然だと思って疑えないこと……

まさしくそれを「差別」と呼ぶんですよセニョール!

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Egoistic Community

なにもかもわずらわしくなって逃げ出したり投げ出したいと思っているときの私にとって、全能感に満たされて精力的に活動しているときの私の存在は、とても遠いものだ。そういうときには、どうして自分があのようでありえたのかがわからないし、その状態を思い出すことにすらしんどさを覚える。

でも、そういう時間がなぜつらいかというと、「そんなことをしていてはお前は駄目だ」という声がどこからともなく聞こえるからだ。周囲からあれこれ言われるのが怖いということもあるけれど、なにより重いのはそうした自分自身の良心の呵責というやつだ。

その一方で、健康な人間が人格的な一貫性を保って破綻せずにいられるのは、こうしていつでも異なる精神状態の自分からの声が聞こえているからでもある。どんなに耳を塞いでも、落ち込んでいるときには立ち上がれという高圧的な声が聞こえるし、高揚して活発に動き回っているときなら休ませてくれという救難信号が聞こえる。それはきわめて厄介なことだけれど、裏を返せば、それ自体が健全の証でもある。

ところが、こうした自分の声は苦痛の源泉そのものでもあるので、現状を維持しようとする力が働いて、人は可能な限りこれを無視しようとする。必要以上の苦行に打ち込んでみたり、精神活動のレベルを落として引きこもったり、というのは、その現れでもある。そこで苦痛が受容できる水準を超えてしまったり、これを無視しようとする力が過剰に強まると、人格はバランスを失って荒廃し、限界を超えた場合には、解離性障害などの変容によって、かろうじて精神活動そのものが完全な機能停止に陥ってしまうことを阻止しようとする。

そもそも、苦痛に対して叱咤や逃避をもって対すること自体、筋の良い話ではないのだろう。自分の人格は自分の思い通りのものではないし、無前提に矛盾のない一貫性を持っているわけでもない。だからといって、ままならない部分を切り離したり無視することなどできるはずもない。

私の中の彼らは、放っておけばいつでもお互いを無視しようとするけれど、いくら互いを疎んだり恐れたりしたところでそれは消えてなくなったりはしてくれない。きっと彼らは、互いをいつでも気にかけ、互いを良く知るようにつとめ、一方は他方を助けてやらなければならないのだ。強くあるときこそ弱い自分のことを思い出してその重荷を引き受けてやるべきだし、弱くあるときは強い自分の声にできるかぎり耳を傾けて助けを求めるべきなのだろう。

すべてがうまく回っているときには、できれば弱い自分のことなど思い出したくもないものだけど、どんなに無視してもいつかはかならず交代して、弱い方の自分のターンがやってくる。強い自分は、弱い自分の何倍も強い。もっとも近くにいるそいつが助けなくて、いったい誰が弱い自分を助けられるだろうか。自分自身の内にある弱者すら無視して生きようとするなら、自分自身の外にいる他者との間にはどんなことが起きるだろうか。それは、文字どおり他人事ではないのだと思う。

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拒絶との対話

―――君は神様を信じない。もちろん君は僕のことも信じない。愛したいと思っても避けられてしまう。

「誰もがきみの言うように何かを信じられるわけじゃない。それにきみはまったく優しくなくて、むしろ自分だけの正しさを押し付けてぼくを否定するばかりだ。それで信じろといわれたって無理だ」

―――いや違う。僕は愛したいし優しくしたいと思っている。でも、君はそれを信じないし、そうさせてくれないだけだ。

「ぼくはこのままでかまわない。ぼくときみは今でも十分に友達だと思っている。そのことがなぜいけないんだ」

―――僕の心の底にも、君の心の底にも、嘘がある。もし仮に僕たちのどちらかが死んでも、そこにはきっとあるべき痛みがない。僕はそれが怖い。

「それは仕方のないことなんじゃないのか。ぼくもきみも、いや、少なくともぼくは、そういう人間だ」

―――そんなはずはない。きっと本当のものがあるはずだ。ただそれに気がついていないだけで、僕の中にも君の中にも、そんな「仕方ない」なんて話よりもっと大事なことがあるんだ。

「それを求めているのはきみであってぼくじゃない。なのに、きみはぼくに何かしろと要求ばかりする。そして、それが受け入れられないとなると、今度はぼくの存在そのものを否定しようとする」

―――だって、それができるのは君自身だけなんだ。君自身が動かなければ、僕にはどうすることもできない。それに、僕が否定しているのは君の存在じゃない。君を動かすために必要なら、なんだって言おうとするだけだ。

「でも、ぼくはきみのいう『それ』を望んでいない。きみがどうしてこのままじゃいけないっていうのかわからない」

―――なぜいけないのかは、君が自分で考えなきゃわからないことなんだ。

「それはただ勝手なだけにしか思えない。要求はする、否定もする、でも、全部ぼくがやらなきゃいけないときみはいう。ぼくは今のぼくのままでいちゃいけないのか」

―――君は君のままでいてくれなきゃ困る。だけど、今のままでは困る。

「ぼくは今のままでも困ってない。もしきみが『それ』を望むっていうなら、ぼくはきみのためにすることになるわけだけど、きみはぼくのために何をするっていうんだ」

―――僕の真実にかけて友達でいたいと思っている。

「そんなことを言うけど、きみはぼくのことを否定する一方で、まったく認めようとしてない。ぼくにはそれしか見えない」

―――それだけじゃないことをどうやったら信じてもらえるのか。

「きみはきみ自身のために、ぼくに対して『それ』を望んでいるだけに見える。きみの言葉はひどく利己的で、きみのいう愛とか優しさとはまるで逆のことにしか思えない。だからぼくは信じろといわれても信じられない」

―――違う。エゴイスティックなことだけど、利己的なことじゃない。僕は君にそのことを知ってほしいと本当に思っている。

「どう違うのかわからない。それはきみだけが望んでいることで、ぼくが望んでいないことなんだから、結局は同じじゃないのか」

―――だから、同じだと思われたままにしておきたくない。

「きみはさっきから、ぼくがこのままじゃ気に入らないとしか言ってないように聞こえる。そんなことを言われても、ぼくはこういう人間なんだ」

―――君が僕のことを嫌っていたり、本当にどうでもいいと思えるような人間だったらこのままでもいいかもしれない。でも、僕はそんなふうに思えないし、そうしたくもない。

「きみは、ぼくがきみの望むことにに応えなかったら、ぼくから離れていくだけだと思う」

―――君のことをどうでもいいと思ったりしたくない。友達をやめるつもりもない。だからそれが僕の望みだ。

「でも、やっぱりきみみたいな人間ばかりじゃない。ぼくはきみとは違う人間なんだ。きみはそれが許せないという」

―――そうじゃない、違う人間だけど、互いに同じ気持ちを持つことはできると思っているだけだ。

「その気持ちはきみのものであって、ぼくのじゃない」

―――簡単なことなんだ。信じさえすればいいだけなんだ。

「それはただの押し付けじゃないのか。やっぱりぼくが『それ』をしなきゃいけない理由がわからない」

―――好きだとか大事だとかいうことに、理由なんかない。

「でも、きみは、きみにとって大事なことをを押し通すためなら、たとえばぼくを傷つけてもかまわないと思っているだけに見える」

―――君にとっても大事なことであるはずだと思っているだけだ。ただ僕の利得のために君を傷つけたいとなんて少しも思ってない。

「ぼくにとっての大事なことはきみとは違う。ぼくは現に傷つけられているし、そんなことのために傷つきたくない」

―――大事なことだと思うからこそ、どうしても伝えようとせずにはいられない。

「もしきみが友達でようとしても、今のぼくを否定され続ければ、ぼくがそれに耐えられなくなって離れてしまうかもしれない。きみがそうしたくないように、ぼくだってそんなこと望んでない。きみのやっていることは身勝手で傲慢だ」

―――それなら、どうやって伝えればいいんだ。

「それはぼくのほうこそ聞きたい。ぼくがこのままきみと友達でいるってことはできないのか。ぼくはただそれだけでいいのに」

―――僕だってちゃんと友達でいたい。だからこそ、このままじゃ駄目なんだ。

「それがだめだといってるのは、きみの一方的な要求でしかない」

―――だから、それに応えてほしいと思っている。それに、友達から応えてもらうことは一方的なことなんかじゃない。僕は、自分の持てる全ての真実でそれに応えたい。

「だから、それはきみにとっての真実でしかない。ぼくにとっての真実は違う」

―――君にとっての真実っていったいなんだ。

「それは言葉で言わなくちゃだめなものなのか」

―――駄目かどうかじゃなく、少しでも言葉でも言うことはできないものなのか。

「少なくとも、きみの求めるようには無理だ」

―――それなら、僕の求めるようにではなくてかまわないから、それを教えてくれないか。

「だから、さっきから言っている。たとえば今のまま友達でいるってことだとかだってそうだ」

―――それは君にとって本当にそんなに大切なことなのか。今のままってことが君にとっての真実なのか。

「今のままがいいかどうかはわからないけど、少なくともきみの望むようにかわることはできない」

―――少なくとも僕の望むようにはなれない、というのが君にとっての真実なのか。

「そうじゃない。そういうことなら、ぼくにはきみのいう真実なんて何もないのかもしれない」

―――いや、僕は君にとっての真実が知りたいだけだ。

「だから、それはぼくにはないと思う」

―――僕はそんなことはないと思っている。

「それじゃ、きみにとって答えは最初からひとつしかないじゃないか。ぼくにはぼくの真実があるはずだ。しかも、それはきみにとっての真実と同じものでなきゃいけない。きみのいてることはそういう話じゃないか」

―――そうじゃない。君にとっての真実は君だけのものだ。

「だから、きみがいう真実ってのはぼくにはない」

―――それは、本当に大切なものがないってことなのか。

「そんなことはない。でも、さっきからいくらそれを言ってもきみが納得しないだけだ」

―――そうじゃない、僕は納得させてほしいからこそ、それが本当に君の真実なのかを確認しているだけだ。ところが、君は、僕が「本当にそうなのか?」と聞くと、曖昧な答え方をして、はっきりそうだと言ってくれない。

「真実ってそんなに簡単にはっきり言えるものなのか」

―――本当に大事なことだったら、そんなにも曖昧になるはずがないと思う。

「だとしたら、やっぱりきみが思うような『本当に大事なこと』ってのは、ぼくにはない。でも、ぼくにだって大事なものはあると思う。それまできみに否定されたくない」

―――否定するつもりなんかない。ただ知りたいだけだ。

「だから、やっぱりわからない。あるかもしれないし、ないかもしれないとしか言えない。それに、そもそも真実ってなくちゃだめなものなのか」

―――駄目とか良いとかじゃなく、君自身も言ったように、それは君にもあるはずだと思うし、あるなら知りたいと思うだけだ。

「そういう意味でなら、やっぱりないと思う」

―――単純に、君とって何が大事かってだけなんだ。それが口にできないのは、ないんじゃなくて、君自身に見えてないだけなんじゃないのかと思う。だから、僕はそれを君自身が知るべきだと思う。

「なんで知らなきゃいけないのかわからない。知らなくてもかまわないじゃないか」

―――自分にとって大事なことがなにかわからないというのは、不幸なことだと思うからだ。

「べつにそれで不幸だと思ったことなんかない」

―――それは、自分には大事なことが何もないと思い込んでいるからだ。

「どうしてそんなことがきみに言えるのかわからない。少なくとも、ぼくは君のいうとおりだとはまったく思わない」

―――つまり、大事なことがないと思っているわけじゃない、ということだろうか。

「そうじゃなくて、あると思うけど、もしなくてもそれが不幸だとは思わないということだ」

―――それは、大事なものがないと言ってるのと同じことだ。でも、本当にないんじゃなくて、君が自分をちゃんと見てないから気づかないだけだ。

「さっきから、なんできみがそんなことを一方的に決め付けられるんだ。きみはぼくじゃない、違う人間なんだから、そんなふうに断定するのはおかしい」

―――生きている人間に、本当に大事なことや譲れないことがまったくないなんてことは、ありえないと思うからだ。そうでなければ、たとえば今、君が「はっきりわからないけどあるはずだ」と言いたくなる理由がない。

「だから、あるかもしれないけどはっきりわからない。だけど、そこまではっきりさせなきゃいけないときみがいう理由がわからない」

―――その理由を知るためにも、自分の大事なものは確かめてみるべきだと思う。

「それがきみにとっては大事なことなのはわかるけど、ぼくはべつに知りたいと思わない」

―――僕は逆に、君も自分にとって大事なことがあるのにそれを知らないままでもいい、というその理由こそがわからない。

「そんなに簡単に『これが大事なことだ』って言えるとは思わないからだ」

―――簡単だなんて思っていない。むしろ、自分にとって大事なことを知るのはものすごく大変なことだと思っている。

「だったら、きみみたいに簡単に『ある』って言えることこそおかしい」

―――僕は簡単に言ってるつもりなんかまったくない。自分にとって大事なことについては、全力で言っているつもりだ。

「だから、きみはそうかもしれないけど、ぼくにとっては、これが大事なことだと断定的に言えるような、そういうものじゃない」

―――「そういうものじゃない」かどうかだって、ちゃんと確かめてみなければわからないはずだろう。

「そもそも知らなくてもいいと思うし、どうしてそういうありかたが許容できないのかわからない」

―――知らなくてもいいと思うのは、まだ君がそれとちゃんと向き合ってみていないからだ。大事だと思うからこそ、理由もなく無用だといわれたって納得できない。

「無用だなんていってない。ぼくはきみがそれを重視していることを否定しない。なのに、きみはぼくがそうでないことを否定しようとする」

―――自分にとって大事なことを知るべきだと言われることは、君にとって存在の否定になるのだろうか。それは、そこまで受け入れがたいことなのだろうか。

「そうじゃない。きみが、そうでなければ駄目だ、みたいにいうからだ」

―――僕の言い方が悪かったのであれば済まないと思う。でも、それとは別に、君自身のために考えてみるというわけにはいかないだろうか。

「だから、ぼくにはきみが納得するような答えは返せない」

―――僕のためじゃなくて、君自身のためにだ。

「ぼくの答えを聞きたがっているのはきみなのだから、ぼく自身のためではなくてきみのためだろう」

―――誰のためかなんて問題じゃないだろう。それに、君が考えたことは誰がなんと言おうと君自身のものだ。

「だから、さっきから考えていっているし、それをいくらきみに話しても、きみはちゃんと考えていないといって納得しないだけだ」

―――君がいま本当に自分にとっての大事なことと向き合おうとしているかどうかは、君自身が知っているはずだ。

「それはぼくの問題であってきみの問題じゃないだろう」

―――なんでそうやって隠したり避けたりしようとするのか、僕にはわからない。

「隠しているつもりはない。ぼくにはきみが求めるようなものがないだけだ」

―――自分にとって大事なものを本気で考えてみてくれと言っているだけだ。

「何度もいうけど、ぼくはそれを必要としていないし、きみにいくら求められても望むような答えは返せない」

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