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2008年10月

観客席から見下ろす遠くの他人の問題〜「イキガミ」

観に行く前からおおかた予想はついていたのだけど、もしかしたら、という期待をかけて行ってみて、やっぱり失望して帰ることになってしまった。自分の直観に従わない私の期待はだいたいいつも外れる。

原作のまんがを読んでいないのでどの程度忠実なものなのかはわからない(私の後ろにいた30代くらいの3人連れの男性の会話によると「ほとんどそのまんま」らしいけど)ものの、プロット自体はそれなりに良くできたものだったと思う。映像も、私が映画で観たいと思う種類のものではなかったけれど、構図もシャープで線にも色彩にも緊張感があったし、さすがにお金をかけて作っているだけの完成度はあった。でも、そうしてきちんと作られているにもかかわらず、というよりも、むしろそれゆえに、ますます作品としてはまったく受け入れがたいものだった。

その完成度それ自体が、大手出版社のヒット作を原作にした、ある程度の興行的成功を義務づけられた作品、という文脈のなかに作品を深くはまり込ませていて、作り手がエンターテイメントとして熱心に作り込むほど、それは作品が本来提示すべきメッセージからこの映画をかけ離れさせていく。作中の「劇的な死」には常に留保がつけられ、作中で絶えず批判的に評価されてゆくのに、観客が受けとるのはその劇性ばかり。結果として、画面のむこうで展開される出来事は、どこまでもわれわれから遠く離れた「異常な」世界の物語でしかなくなり、われわれはそれを居心地の良いシートに深く身を沈めてポップコーンでも食べながら観ている、という構図が強化されるだけだった。

結局、不愉快を与えることなく作品を制作することには、ある種の思考停止を伴った熱意が必要なのであって、それは作中で(少なくともそのプロット上では)問題化しようとしていることそのものだ。ヒット作には忠実に作りたい。メッセージ性も消しちゃだめだ。でも、本気で観客を不快がらせちゃだめだ、だってこれは「娯楽」なんだから…。だから、われわれの生きている現実の社会との連続性は念入りに消去され、さて、これから先どんな物語が場面が映像が展開されても、それは私たちの世界とは全然別の、社会派SF的なフィクションの世界なのですよ、という断絶と安心の約束が提示される。ああよかった、それなら私はこれから2時間ばかり、ちょっと意味深げな娯楽を楽しむとしようじゃないか! ああよかった、今日の私はいろいろ考えさせられた! さあ、帰りに3階のレストランで食事でもして帰ろう!

私は最近はあまり青年コミック誌を読まなくなったけれど、あれがそれなりに原作に忠実なのだとしたら、それがどういうものなのかおおむね見当がつく。それは(最近休刊になった)「ヤングサンデー的反逆」とでもいうべきものに違いない。どんなアナーキーな身振りもメッセージも、あらゆるものが反動的な娯楽の文脈に回収されるあの感じ。アートはその美をもってそれ自体の自由を主張するが、そこに施された政治的メッセージはことごとくただの道具として飼いならされてしまう。だから、政治的に反動であるような作品のほうがまだしも自由に誌面に生き生きと息づいていて、反逆的な作品は生まれた瞬間にことごとく死んでしまう。そんな死骸の山。もちろん、スピリッツだって基本的な事情はかわらない。

こうした作品に必要なのは、大仰な世界設定でも、コントラスト過剰の鮮やかすぎる映像でもなく、もっとあたりまえの、ローファイの、私たちが生きる現実とつながる風景と、音と、生活と、人間だ。それがあってはじめて、私たちの想像力はスクリーンという膜を突き破って、画面の向こうと自分の座る観客席を、ひとつの連続した総体ととらえることができるし、問いかけは心に達し、不愉快で重苦しい現実の一部になる。もちろん、映画としてそれが唯一の方法でも最高のものでもない。それでも、画面が絶え間なくプロットを裏切り、背後からナイフを突き立てて殺し続けるようなものを望まないのであれば、こうした作品は娯楽であることを放棄せざるをえないし、そうでないのなら、そもそも作るべきですらなかった。

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ハロー!プロジェクトの「リストラ」話

標記の件で、友人が「リストラ」という単語について、その無責任でネガティヴな誤用の問題を指摘していたので雑感メモ。

Restructuring は、言葉の意味としてはもちろん再構築なので、 大量解雇の意味で使うのはその限りでは間違いなのだけど、 実際には経営者が単なる大量解雇の言い訳としてその単語を使ってきた経緯があるので、そもそも間違っているのは何か、という話もある。そして、リストラという言葉の誤用が、悲壮で陶酔的な「経営ゴッコの気分」を作り出すという側面は確実にある(実際、私自身、以前の勤め先でその種の立案をしたときにも、いっそのことそういう「お話」にしてしまいたい、という誘惑を感じたし)けれど、そこから一歩先のこととして、本当の因果がどちらにあるのか、というのはいつも気にしていなければいけない。つまり、何がどちらの言い訳で、当事者の吐く嘘や外野からの無責任な放言によって隠されようとしているのは、本当は何なのかと。

とはいえ、「卒業」した彼らのファン(ヲタ)たちが当事者として貫くべき真実がひとつであることは揺るがないだろうし、それについて異論のあろうはずもないので、その意味でならそもそもこの「卒業」自体も大きな問題ではないだろうけど、社会的にはとても象徴的な出来事だと思う。つまり、特定の事業にかぎらず社会のパイが小さくなって必然的にポストが不足するなかで、現実的な選択は結局ワークシェアリング以外にありえない(単なる解雇は長期的に組織自体の足元を掘り崩すことにしかならないから)ので、ここでアイドルユニットの「ポスト」を外れたメンバーたちが、この先、みんなドサ回り中心で生き残って行くのだとすれば、それはこの社会全体にとってありうべき未来の姿だろう。そういう意味で、クビキリクビキリとはしゃぐ連中はもちろん間違っているわけだけど、それらの声は本質的に無力だと思う。

つまりどっちにしてもやっぱり結論はひとつなのだけど。重要なのは、被雇用者(この場合はアイドルたち)をモノ扱いしてバカにすることでもなければ、その逆に「組織の再構築」という体のいい金看板を掲げることでもなくて、ちゃんと彼らが人であることを忘れないで居続けること(「ヲタ」なら応援し続けること)でしかない。ワークシェアリングというのは近視眼的には特定の誰かの利得が見え難く、結局のところ、人が人らしく居続けられるように、という心意気なくしては本来発想されない社会的なソリューションなので。

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教えられているのはどっちだ?

大学院に通いながら塾の講師をしている友人の辿りつつある変化はとても示唆に富んでいる。

講師のアルバイトをはじめた当初、彼が私に語った「生徒を教えることの困難」とは、ものごとを学習をするさいに要求される、説明しようのないほど基本的で当然の能力(たとえば、板書の写し方やノートの使い方であるとか、できなかった問題を繰り返し解くという反復の習慣そのものであるとか、文章の論旨の追い方であるとか)を彼らが身につけていない、というものだった。

しかし、その嘆きは、学歴社会の勝者としての彼自身の優越意識をにじませるものであって、実のところ、「嘆き」というより「自慢」に近いものだった。彼自身の学習のための基礎能力は、あたかも生得的なもの・はじめから身についていたものであって、教え子たちと彼の間にはそういう乗り越え難い断絶があるのだと強調しつつ、同時に自身の良心をなだめるために表面的には困ったフリをして見せる、という形で、彼の無自覚の欲望はあからさまに垂れ流されていた。

ところが、それから1年も過ぎるうちに、講師としての熟練度が上がり、受け持つ生徒の数も増えるようになって、そういうことばかりも言っていられなくなったのだろう。彼は、いったいどうすれば、一見「説明しようのない」ほどに基礎的ことを生徒たちに教えられるのだろうかと、そして、それらの基礎的な事項を、彼自身にしても決してはじめから身につけていたわけではなく、どこかで学んできたはずだと、考えるようになっていた。

もちろん、こんなことは人にものを教える人間にとってはあたりまえのことのはずだ。というのも、どうやって学ぶのかがわからなければ、それを他人に学ばせることなどできないから。だから、彼もまた、「物心ついたころにはすでに知っていた」などという傲慢な思い込みを捨て、いつどのように学んだかを思い出す必要があった。そして、自分もかつて学び、彼らもこれから同じように学ぶのだ、というあたりまえの事実を通じて、個人的な優越意識を守ることを(結果として)放棄し、彼自身と彼らが同じである、という、これまたあたりまえの事実を理解した。

1年前には、私がいくら言葉をつくして指摘しても、あるいは皮肉まじりに批判しても、形式的かつ表面的にしか理解しなかったこの「あたりまえ」のことを、彼は、教えることでいともたやすく学びおおせた。これは、おそらく単なる学習プロセスや優越意識だけの問題ではない。同時に(部分的には)愛したり愛されたりすることを学ぶ機会ですらあるのだと思う。

「教育は愛」なんてフレーズはそれ自体としてはせいぜい揶揄的なパロネタにしかならないだろうが、子どもに体系的・継続的になにかを教えることで生じる関係性は、実際、構造的には愛情のそれに近い。子どもというのはおおむね学習意欲も寵愛を受ける意欲も(少なくとも大人よりは)高い。それまでに身につけた知識の総量も少なく、また心身共に他者の庇護を必要としてもいるから、知識も愛も、生きてゆくためにはまだまだ必要だ。だから、つまらない代償やかけひきなしに、あっさりと教えられた知識を信じるし、他者によって導かれることを受け入れる。

日常の大人同士の関係性のなかで、自分の口にしたほとんどすべてのことが、無条件で全面的に信頼され、真実として受け入れられる、などという状況はまずない。というか、そんなことが会社内などで頻発するとしたらそれは異常ですらある。あるとすれば、特別な愛情や信頼で結ばれたごく少数間の関係に限られるだろう。ところが、教師と生徒の間でなら、これもさほどめずらしくない状況であって、しかも、一対多ないしは多対多の形でごく普通にありうるものだ。

そのとき、教える立場の者が子どもに対して感じることは、愛の場合ときわめて良く似ている。愛情は「こんなに愛させてくれてありがとう」という感謝をそれ自身の報酬とするが、教育における報酬は「こんなに教えさせてくれてありがとう」であり、もっといえば「君を間違った方向に導いてしまうかも知れない私をこんなに信じてくれてありがとう」ということになる。そうやって、子どもたちに授けられる平凡で交換可能な知識と引き換えに、教師たちは、恐ろしく学習の難しい重要なことを教わる。その交換はあまりにも不釣り合いで、「教育」なるものは、実は教える側のためになされているとしか思えないほどだ。

きっと、私の友人も、教えることを通じて、自身の抱えるいろいろな問題(内なる懐疑だとか、他者への根底的な不信だとか、絶望だとか、内在化されすぎて身動きの取れなくなった上昇志向だとか、そういうありふれた、しかし深刻な問題)を乗り越え、さらには自らの専門分野に関する見識すらも深めることになるだろう。それを彼に教えるのは、彼の将来の教え子たちの仕事だ。

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ある絶望の姿

他人を蹴落としたり、自分の身を守ったり、そのために見栄を張ったり嘘をついたりするのではなく、ただ少しだけ他人にも自分自身にも、優しさや思いやりをもって見てほしいだけなのに、少なくともまずは家族や友人がそう思って生きられるようになってほしいと思っているだけなのに、それはひどく難しいことだ。私にしたって、しばしば無造作にものごとをとらえ、短慮から軽率な振る舞いをすることばかりだ。それでも、そのままではありたくないと願っているし、そこから何ごとも変わらないと絶望もしたくない。そして、私の知る人たちにもやっぱり絶望してほしくないと願っている。

ところが、絶望とは生きる喜びとともに苦痛をも取り去るばかりか、絶望それ自身の痛みをあいまいなものにしてしまう。あいまいな苦痛のなかで、希望を抱く勇気さえも奪われてしまうのだ。彼らは「言うことはよくわかるけど、仕方ない」という。その自分自身の言葉が、どれだけ悲しいものなのかがわからないのだろう。私のへたくそな話しぶりでは、どうして私が同じことを何度も繰り返して言わずにはいられないのかをうまく伝えられない。

彼らのいう「わかった」はいつも、私には「何ひとつわかっていない」というサインに見える。本当に「わかって」しまったら、仕方ないとあきらめることなどできなくなるはずなのだ。それは漠然としたあきらめではなく、心身を苛む苦痛としてあらわれるはずなのだ。痛みを痛みとして理解することこそ、まぎれもなく私たちが生きているという証拠なのに。

では、「あなたは絶望している」と言われて、本当に絶望している誰がそれを信じるだろうか。絶望しているから痛みを感じない。そして、痛みを感じないから絶望を自覚しない。私には、宝箱を開けるための鍵がいつもその宝箱の中に入っているように思えてしまう。彼らはなぜ痛みから逃げるのか。それは、本当の痛みがそこに「ある」ということを実は知っているからなのだ。知っているからこそ、知らんぷりをして逃げようとする。ところが、それは一生かけてひたひたと追いかけてくるものだ。振り向いてそれを迎え撃つには勇気がいる。それはわかっている。

だから、怯えながら、そんなものは追いかけてきていない、ゆえに不安も恐怖もない、と、嘘をつく。それは虚偽意識というものだ。怯えながら絶望に逃げ込み、恐怖に駆られて他人も自分も憎むような人生を、その隣にいながら見過ごすような後悔を、私はもう二度としたくない。

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卒リン

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081013-00000006-yom-soci

海自隊員のワープア化にいっそう拍車がかかりそうな。

人が減るから一人あたりの業務負担は大きくなる。かたや金融不況を契機としたパワーバランスの変動で、彼らの仕事は今後もますます増加の一途。しかも任務と訓練のダブルパンチ。やってられないから人が減るの悪循環。そんな状況でまともでいられる方がどうかしてるんだろう。これじゃまるでリストラに失敗した企業さながら。いや、実際小泉がリストラに失敗したからこうなってるんだけど。

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麦を喰え、みたいな

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081007-00000559-san-soci

一泊1,500円のところに泊まるなんてファッショナブルで贅沢なこと、とか本気で思ってるんだろうかこの人。200円じゃなくて900円だなんてことよりも、こっちが結局スルーされっぱなしで終わったことの方がよっぽど問題だと思うんだけど。

そういえば、どこぞの都知事の息子が海外視察で泊まってた宿は一泊何百円だったんでしょうね。ちなみに「健康で文化的な最低限度の生活」ってのは寝て起きて飯喰って働くだけでいい、とか、生きられるだけでも有難いと思え、とかって意味じゃないんですけどね。

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職場に居場所がないという相談

友人が、後輩からそういう相談をされて、どうしたら良いかわからないと思ってずいぶん悩んだのだそうだ。ところが、たぶんその本人が知らないだけで、答えられずにどうしようと悩んだその瞬間に、もう半分答えは出ているようなものだ。

みんな苦しいのは同じなんだから弱音を吐かずにもっと頑張れとか、ちゃんと空気読んで周囲に阿れとか、その職場を選んだ時点で自己責任とか、そういうしょうもない「助言」をすることではもちろんないし、本人の希望をヒアリングして転職を勧めることでもない。もちろん、何かをしたがっているのに勇気がないならそれを励ましてもいいと思うけど、そういう、具体的にどんな言葉をかけるか、という話じゃなくて。

目の前に、今の自分には居場所がない、という人がいるなら、まさにその瞬間から居場所を作ろうとすれば良いだけなんだ、と。だから、どう言葉をかけて良いかわからないと悩むことは、なにかの処方箋を渡して、これでもう相談しなくていいねハイおしまい、というのよりもはるかに正しい。ただ、それをちょっと積極的にそのつもりになって、悩む頭の数を2倍にするだけで、もう立派な答えになる。

そんなヌルいことじゃ根本的な解決にならない? いや、そいつは全然違う。むしろそれ以外のどんな方法も根本的な解決になんかならないのだ。たとえば、我慢するのは根本的解決じゃない。自己責任だとか言い放ったって、それを言った奴が少しばかりいい気分になるだけだ。転職したって、また同じことを思うかもしれない。運が良ければ思わないかもしれないけど、それじゃギャンブルで一山当てろっていってるのと大差ない。それらは、どれも言うだけ言ったら後は知ったこっちゃない、ってことだけが共通してる。

大事なのは、「職場に」居場所がないことより、そもそも、居場所が「ない」ことだ。居場所が「ない」のなら、なによりもまず居場所が「ある」ことが必要だろう。馬鹿らしいほど簡単な話だ。そこが居場所になるかどうかの分岐には、自分は指一本動かしたくない前提でいるのか、自分も何かしてやりたいかの違いがあるだけ。人間の問題は人間が解くしかない。目の前にいて悩んでいる人も、それを聞いている自分も、人間なんだということを思い出すだけでいい。飲み屋のテーブルが誰かの居場所になったって全然かまわないじゃないか。だからこそ、一緒にそこで悩めたら、それはもう半ば答えになっているのだ。

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自分の巡回ブログが次々と潰されているという恐怖。

http://d.hatena.ne.jp/sjs7/
久しぶりに読もうと思ったら閉鎖してた。最近、こんなんばっかり。ホント気分悪くなってくる。ついでに少し以前にはてな村で盛り上がってた「ホームレスを図書館から追い出せ」論争を(よせばいいのに)拾い読みしてたら最悪の気分になった。いつものことだけど、みんな自分を机上の安全地帯に置いて、しかもそれを守ることにあまりにも必死すぎて問題に触れることすらできていない。必死になりすぎて、人を傷つけることに躊躇がない。

しかも昨日は院生やってる友人が「景気悪化は自分みたいな不労層が多いせいかな」とか言い出すし。ねえ、キミは今まで学校でそういうことを言い出さないためのいろいろを学んできたはずじゃないの。そんな冗談はまるで面白くないし、もし冗談じゃなかったらもっと最悪だよ。

世界には私がいくら背負おうと思っても背負いきれないほど膨大な不幸や苦痛があって、その重荷をそれでもどうにか少しくらい背負う方法は、人が誰であれ人であることを忘れないように考えつづけることくらいしかなくて、自分の愛すべきとりわけ身近な人たちもまた、その重荷を引き受けて生きてゆけるように手伝うべく、励ましながら不愉快な真実を突きつけるという厄介な仕事をしなきゃいけない。そういう職業的反社会人になりたいのに、そいつはものすごく怖い。

支えきれないような重荷を背負いたくない/背負えないと疑う人たちは、苦痛を突きつけられ、なおかつ歩みを止めるなと言われたら、本気で逆上するし拒絶する。相手が「身近な誰か」の範疇を超えれば、もう顔も見えないし声も届かないから、返ってくるものは拒絶だけでは済まされず、もたらされる不快感をその発信源もろとも消し去ろうとする暴力にさえ変わる。彼らは、ただ善良に折り目正しく乱されることなく生きていたいだけなのに、お前は責めるのか、理不尽だ、と言う。「善良」な自らが本当は背負うべき重荷を投げ出す罪咎を犯していることを知っているから、なおのこと怒り狂う。

目下、まさにそうやって自分が読んでいるブログが次々に潰されていくのを見せつけられてる。その個別の事情はここでは問題じゃなく、彼らに対する「善良な怨嗟」の暴力がどれほど熾烈かということだ。そして、その暴力はこれからさらに加速するんだろう。わが宗主国は金の切れ目が縁の切れ目とばかりに金を要求してきているし、払いが悪くなればこの国の安全保障は名実ともにがたついてくる。そのとき、どんな荒み方をするのかだって想像はつく。

もちろん、だからこそ、その流れに抗おうとする人だって少しずつは増える。私は、そんな彼らがかろうじて踏みとどまったり力尽きて潰されたりする様を、そっと薄目を開けて見ているにすぎない。大切な友人の不見識ひとつ正すこともできない。知りたくもなかったことを知らされた誰かに、その痛みに耐えてもいいやと思ってもらえるほど優しくなんかできるのだろうか。今はまだ、拒絶されたら思わずあきらめそうになるくらいにしか優しくできない。

自分が生き残ることにしか役に立たない強さなんか今さら欲しいとも思わないけど。でも世界の重荷を背負うために必要な強さのほうはまるで足りない。

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