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2008年11月

拒絶との対話

―――君は神様を信じない。もちろん君は僕のことも信じない。愛したいと思っても避けられてしまう。

「誰もがきみの言うように何かを信じられるわけじゃない。それにきみはまったく優しくなくて、むしろ自分だけの正しさを押し付けてぼくを否定するばかりだ。それで信じろといわれたって無理だ」

―――いや違う。僕は愛したいし優しくしたいと思っている。でも、君はそれを信じないし、そうさせてくれないだけだ。

「ぼくはこのままでかまわない。ぼくときみは今でも十分に友達だと思っている。そのことがなぜいけないんだ」

―――僕の心の底にも、君の心の底にも、嘘がある。もし仮に僕たちのどちらかが死んでも、そこにはきっとあるべき痛みがない。僕はそれが怖い。

「それは仕方のないことなんじゃないのか。ぼくもきみも、いや、少なくともぼくは、そういう人間だ」

―――そんなはずはない。きっと本当のものがあるはずだ。ただそれに気がついていないだけで、僕の中にも君の中にも、そんな「仕方ない」なんて話よりもっと大事なことがあるんだ。

「それを求めているのはきみであってぼくじゃない。なのに、きみはぼくに何かしろと要求ばかりする。そして、それが受け入れられないとなると、今度はぼくの存在そのものを否定しようとする」

―――だって、それができるのは君自身だけなんだ。君自身が動かなければ、僕にはどうすることもできない。それに、僕が否定しているのは君の存在じゃない。君を動かすために必要なら、なんだって言おうとするだけだ。

「でも、ぼくはきみのいう『それ』を望んでいない。きみがどうしてこのままじゃいけないっていうのかわからない」

―――なぜいけないのかは、君が自分で考えなきゃわからないことなんだ。

「それはただ勝手なだけにしか思えない。要求はする、否定もする、でも、全部ぼくがやらなきゃいけないときみはいう。ぼくは今のぼくのままでいちゃいけないのか」

―――君は君のままでいてくれなきゃ困る。だけど、今のままでは困る。

「ぼくは今のままでも困ってない。もしきみが『それ』を望むっていうなら、ぼくはきみのためにすることになるわけだけど、きみはぼくのために何をするっていうんだ」

―――僕の真実にかけて友達でいたいと思っている。

「そんなことを言うけど、きみはぼくのことを否定する一方で、まったく認めようとしてない。ぼくにはそれしか見えない」

―――それだけじゃないことをどうやったら信じてもらえるのか。

「きみはきみ自身のために、ぼくに対して『それ』を望んでいるだけに見える。きみの言葉はひどく利己的で、きみのいう愛とか優しさとはまるで逆のことにしか思えない。だからぼくは信じろといわれても信じられない」

―――違う。エゴイスティックなことだけど、利己的なことじゃない。僕は君にそのことを知ってほしいと本当に思っている。

「どう違うのかわからない。それはきみだけが望んでいることで、ぼくが望んでいないことなんだから、結局は同じじゃないのか」

―――だから、同じだと思われたままにしておきたくない。

「きみはさっきから、ぼくがこのままじゃ気に入らないとしか言ってないように聞こえる。そんなことを言われても、ぼくはこういう人間なんだ」

―――君が僕のことを嫌っていたり、本当にどうでもいいと思えるような人間だったらこのままでもいいかもしれない。でも、僕はそんなふうに思えないし、そうしたくもない。

「きみは、ぼくがきみの望むことにに応えなかったら、ぼくから離れていくだけだと思う」

―――君のことをどうでもいいと思ったりしたくない。友達をやめるつもりもない。だからそれが僕の望みだ。

「でも、やっぱりきみみたいな人間ばかりじゃない。ぼくはきみとは違う人間なんだ。きみはそれが許せないという」

―――そうじゃない、違う人間だけど、互いに同じ気持ちを持つことはできると思っているだけだ。

「その気持ちはきみのものであって、ぼくのじゃない」

―――簡単なことなんだ。信じさえすればいいだけなんだ。

「それはただの押し付けじゃないのか。やっぱりぼくが『それ』をしなきゃいけない理由がわからない」

―――好きだとか大事だとかいうことに、理由なんかない。

「でも、きみは、きみにとって大事なことをを押し通すためなら、たとえばぼくを傷つけてもかまわないと思っているだけに見える」

―――君にとっても大事なことであるはずだと思っているだけだ。ただ僕の利得のために君を傷つけたいとなんて少しも思ってない。

「ぼくにとっての大事なことはきみとは違う。ぼくは現に傷つけられているし、そんなことのために傷つきたくない」

―――大事なことだと思うからこそ、どうしても伝えようとせずにはいられない。

「もしきみが友達でようとしても、今のぼくを否定され続ければ、ぼくがそれに耐えられなくなって離れてしまうかもしれない。きみがそうしたくないように、ぼくだってそんなこと望んでない。きみのやっていることは身勝手で傲慢だ」

―――それなら、どうやって伝えればいいんだ。

「それはぼくのほうこそ聞きたい。ぼくがこのままきみと友達でいるってことはできないのか。ぼくはただそれだけでいいのに」

―――僕だってちゃんと友達でいたい。だからこそ、このままじゃ駄目なんだ。

「それがだめだといってるのは、きみの一方的な要求でしかない」

―――だから、それに応えてほしいと思っている。それに、友達から応えてもらうことは一方的なことなんかじゃない。僕は、自分の持てる全ての真実でそれに応えたい。

「だから、それはきみにとっての真実でしかない。ぼくにとっての真実は違う」

―――君にとっての真実っていったいなんだ。

「それは言葉で言わなくちゃだめなものなのか」

―――駄目かどうかじゃなく、少しでも言葉でも言うことはできないものなのか。

「少なくとも、きみの求めるようには無理だ」

―――それなら、僕の求めるようにではなくてかまわないから、それを教えてくれないか。

「だから、さっきから言っている。たとえば今のまま友達でいるってことだとかだってそうだ」

―――それは君にとって本当にそんなに大切なことなのか。今のままってことが君にとっての真実なのか。

「今のままがいいかどうかはわからないけど、少なくともきみの望むようにかわることはできない」

―――少なくとも僕の望むようにはなれない、というのが君にとっての真実なのか。

「そうじゃない。そういうことなら、ぼくにはきみのいう真実なんて何もないのかもしれない」

―――いや、僕は君にとっての真実が知りたいだけだ。

「だから、それはぼくにはないと思う」

―――僕はそんなことはないと思っている。

「それじゃ、きみにとって答えは最初からひとつしかないじゃないか。ぼくにはぼくの真実があるはずだ。しかも、それはきみにとっての真実と同じものでなきゃいけない。きみのいてることはそういう話じゃないか」

―――そうじゃない。君にとっての真実は君だけのものだ。

「だから、きみがいう真実ってのはぼくにはない」

―――それは、本当に大切なものがないってことなのか。

「そんなことはない。でも、さっきからいくらそれを言ってもきみが納得しないだけだ」

―――そうじゃない、僕は納得させてほしいからこそ、それが本当に君の真実なのかを確認しているだけだ。ところが、君は、僕が「本当にそうなのか?」と聞くと、曖昧な答え方をして、はっきりそうだと言ってくれない。

「真実ってそんなに簡単にはっきり言えるものなのか」

―――本当に大事なことだったら、そんなにも曖昧になるはずがないと思う。

「だとしたら、やっぱりきみが思うような『本当に大事なこと』ってのは、ぼくにはない。でも、ぼくにだって大事なものはあると思う。それまできみに否定されたくない」

―――否定するつもりなんかない。ただ知りたいだけだ。

「だから、やっぱりわからない。あるかもしれないし、ないかもしれないとしか言えない。それに、そもそも真実ってなくちゃだめなものなのか」

―――駄目とか良いとかじゃなく、君自身も言ったように、それは君にもあるはずだと思うし、あるなら知りたいと思うだけだ。

「そういう意味でなら、やっぱりないと思う」

―――単純に、君とって何が大事かってだけなんだ。それが口にできないのは、ないんじゃなくて、君自身に見えてないだけなんじゃないのかと思う。だから、僕はそれを君自身が知るべきだと思う。

「なんで知らなきゃいけないのかわからない。知らなくてもかまわないじゃないか」

―――自分にとって大事なことがなにかわからないというのは、不幸なことだと思うからだ。

「べつにそれで不幸だと思ったことなんかない」

―――それは、自分には大事なことが何もないと思い込んでいるからだ。

「どうしてそんなことがきみに言えるのかわからない。少なくとも、ぼくは君のいうとおりだとはまったく思わない」

―――つまり、大事なことがないと思っているわけじゃない、ということだろうか。

「そうじゃなくて、あると思うけど、もしなくてもそれが不幸だとは思わないということだ」

―――それは、大事なものがないと言ってるのと同じことだ。でも、本当にないんじゃなくて、君が自分をちゃんと見てないから気づかないだけだ。

「さっきから、なんできみがそんなことを一方的に決め付けられるんだ。きみはぼくじゃない、違う人間なんだから、そんなふうに断定するのはおかしい」

―――生きている人間に、本当に大事なことや譲れないことがまったくないなんてことは、ありえないと思うからだ。そうでなければ、たとえば今、君が「はっきりわからないけどあるはずだ」と言いたくなる理由がない。

「だから、あるかもしれないけどはっきりわからない。だけど、そこまではっきりさせなきゃいけないときみがいう理由がわからない」

―――その理由を知るためにも、自分の大事なものは確かめてみるべきだと思う。

「それがきみにとっては大事なことなのはわかるけど、ぼくはべつに知りたいと思わない」

―――僕は逆に、君も自分にとって大事なことがあるのにそれを知らないままでもいい、というその理由こそがわからない。

「そんなに簡単に『これが大事なことだ』って言えるとは思わないからだ」

―――簡単だなんて思っていない。むしろ、自分にとって大事なことを知るのはものすごく大変なことだと思っている。

「だったら、きみみたいに簡単に『ある』って言えることこそおかしい」

―――僕は簡単に言ってるつもりなんかまったくない。自分にとって大事なことについては、全力で言っているつもりだ。

「だから、きみはそうかもしれないけど、ぼくにとっては、これが大事なことだと断定的に言えるような、そういうものじゃない」

―――「そういうものじゃない」かどうかだって、ちゃんと確かめてみなければわからないはずだろう。

「そもそも知らなくてもいいと思うし、どうしてそういうありかたが許容できないのかわからない」

―――知らなくてもいいと思うのは、まだ君がそれとちゃんと向き合ってみていないからだ。大事だと思うからこそ、理由もなく無用だといわれたって納得できない。

「無用だなんていってない。ぼくはきみがそれを重視していることを否定しない。なのに、きみはぼくがそうでないことを否定しようとする」

―――自分にとって大事なことを知るべきだと言われることは、君にとって存在の否定になるのだろうか。それは、そこまで受け入れがたいことなのだろうか。

「そうじゃない。きみが、そうでなければ駄目だ、みたいにいうからだ」

―――僕の言い方が悪かったのであれば済まないと思う。でも、それとは別に、君自身のために考えてみるというわけにはいかないだろうか。

「だから、ぼくにはきみが納得するような答えは返せない」

―――僕のためじゃなくて、君自身のためにだ。

「ぼくの答えを聞きたがっているのはきみなのだから、ぼく自身のためではなくてきみのためだろう」

―――誰のためかなんて問題じゃないだろう。それに、君が考えたことは誰がなんと言おうと君自身のものだ。

「だから、さっきから考えていっているし、それをいくらきみに話しても、きみはちゃんと考えていないといって納得しないだけだ」

―――君がいま本当に自分にとっての大事なことと向き合おうとしているかどうかは、君自身が知っているはずだ。

「それはぼくの問題であってきみの問題じゃないだろう」

―――なんでそうやって隠したり避けたりしようとするのか、僕にはわからない。

「隠しているつもりはない。ぼくにはきみが求めるようなものがないだけだ」

―――自分にとって大事なものを本気で考えてみてくれと言っているだけだ。

「何度もいうけど、ぼくはそれを必要としていないし、きみにいくら求められても望むような答えは返せない」

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自分の問題

その人が口にしているものが、形式的に扱っているだけの他人の問題なのか、それとも自分の問題なのかは、「ちゃんと自分のこととして考えている」という口先の宣言によってではなくて、その踏み込み方でわかる。

「ディベートのルールさえ満たしていれば1mgも同意できない意見の持ち主とも対話できるからディベートは良いものだ」という友人の言葉に、私はその場でうまく即答することができなかったけれども、そこにはひどく形式的で浅薄な思考しかないと感じた。

結局のところ、彼にとって「1mgも同意できない相手」というのは、まさしくディベートのルールを守るべきではないと考えているような相手のことではないのか。だとすれば、彼が言っているのは、「1mgも同意できない相手でなければ、1mgも同意できない相手とも対話ができる」ということでしかない。

そんな論点先取の仮定上の話に、一体どんなリアリティがあるというのだろう。私には、どうしても彼がそのことについて本気で信じようとして、真剣に考えているとは思えない。少しでも想像力を働かせて考えれば、そういう誤謬に気がついて、論理的にでもそうでなくても、うまくいってもいかなくても、その人にとって大事なことなら、なんとかこれを乗り越えようとするはずだと思う。でも、ここにはそういう形跡は見られない。

自分の問題はつまりその人にとっての現実そのものなので、そこには当然のようにそうした想像力が働くから、こんな明らかな違和感を見落としはしない。だけど、他人の問題はそれにくらべればはるかに雑に扱われる。雑に扱っているかどうかは本人にしかわからないことではあるけど、一定以下の誠実さしか持たない思考は、それなりの説得力しかもたない。

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偽りの自由へ。

「東大合格生のノートはかならず美しい」という本について、某教育系出版社に勤める友人が、かなり激しいトーンでその内容を批判していました。彼は、一見すると自分の属している業界そのものの虚偽を告発しているように見えますし、彼自身もそのつもりでいるかのようでした。

しかし、私には、その批判自体が、その内容が肯定される根拠そのものになっている、という矛盾が感じられました。なぜなら、彼の批判のポイントは「そんな形式的なことを真似ても学力は身に付かない」というものであって、しかも、その前提として、彼自身がそのような方法を取ることなくその大学に合格した、という事実を持ち出していたためです。

「ノートを綺麗に取ると学力が上がって難関大学に合格できてハッピーエンド」みたいな内容が肯定されて本が売れること自体望ましくない、という点だけなら、私も彼に同意するのだけれど、その批判の仕方についていえば、彼は致命的な過ちを犯していると言わざるをえません。

というのも、その内容を「良い」と感じる人の思想は「その方法に従えばテストの点数が良くなるだろう」というものであって、彼の批判は「そんな方法ではテストの点は良くならない」というものだからです。つまり、両者は「勉強はテストの点数を上げるためにするものだ」という目的において共通しているのです。だから、彼の批判は、逆にいえば「方法さえ改善すれば目的は正しく達成される」と言っていることと何らかわりがありません。彼は、結局のところ、その目指すところは肯定し、方法論のみを否定しているにすぎないわけです。

ところが、かかる内容が本質的に批判されるのは、その方法論のためではなく、目指すところが間違っているからです。われわれが何かを学ぶのは、それがペーパーテストの点数を向上させるためではなく、人類が積み上げてきた知識の体系から、相対的に信頼に値すると思われる知識や思考法を少しでも体得するためです。その目的に合致しているのであれば、整然とノートを取ることが間違っているわけではありません。もちろん、ノートを取ることは単なる手段にすぎないので、ノートが雑然としていてもそれ自体には何の問題もありません。そして、ペーパーテストの存在そのものについてもこれと全く同じことが言えるでしょう。つまり、虚偽があるとするならば、方法論だけが姑息に称揚されることで、学ぶことの本質がなおざりにされている、という点にしかないわけです。

そして、私はその「東大合格生の云々」という本を実際に読んだわけではありませんが、そのタイトルからして、「東大合格」を餌に掲げるような著者が、そもそも学ぶことの目的をまるで理解していないことは一目瞭然であって、その意味で無価値だと思いますが、これを方法論の面でのみ批判することもまた、まったく同じ意味で無価値であると感じます。結局のところ、彼がこうした批判の方法を通じて達成することは、ペーパーテストで得点するために学ぶ、という発想の再強化であって、それは学ぶことの目的を毀損する話でしかないのです。

ここには、教育産業に従事する多くの人たちがしばしば抱える、致命的な問題があると思います。つまり、自分自身がペーパーテストでそれなりの点数を取ってきた、という事実そのものを批判的に検討しないかぎり、教育システムが抱える教育そのものの問題を絶対に批判できない、ということです。

とはいえ、学歴によって職を得ている以上は、自分が学歴を利用して生きているという事実から自由になることはありません。しかし、その事実を見ないフリをして偽りの真実を主張するか、その事実を認めた上でその中に自らも含めた虚偽を批判するか、ということの間には無限の距離があります。

どこかの学生や社員であること、あるいはその他の形で、何らかの利益集団に帰属し、批判すべき価値に自ら貢献してなおかつその恩恵にあずかっている、という事実は、それらが生み出す虚偽を批判する際に、われわれの足につけられた鎖のようなものです。そもそもこの社会に帰属している時点で、自分の属する社会に鎖で繋がれています。その意味では、われわれは本質的に自由ではない側面を持っています。

しかし、そこで自分の足にその鎖がついていないフリをしたり、ましてやその鎖をむしろ得意げに掲げるようなことは、自分自身にもっとも深い隷属をもたらすものです。自由であることの第一歩は、いつでも、自分が自由でないということを認めるところから始めなければなりません。偽りの自由で自分を慰めることのなかには、いかなる自由も存在しません。

自由な批判のためには、偽りの自由を捨て去る覚悟こそが必要なのであって、「俺は○○大卒だから学歴社会から自由だ」などとうそぶくことには、惨めな奴隷根性を開き直って誇るような醜悪さしかなく、その人が他ならぬその人自身であることの価値を否定することにしかならないと思うのです。

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メモ

景気循環は結局のところ、(1)未発掘の資源残量、と、(2)人口動態、に左右される。ぶっちゃけ、その2つが人類にとってのポテンシャルのすべてであって、テクノロジーでさえ、本質的にはそれらの関数にすぎない。つまり、前者においてはその収奪の効率の、後者においてはその若さの、関数だということ。しかもその両者は結局同じひとつのことで。

私たちが過去半年の原油の高騰で見せつけられたものは、なにもマネタリズム金融緩和政策の本質的な限界だけではない。それよりも、資源はいつかなくなるんだ、というものすごくシンプルな事実だろうと思う。

(1)の残量があるかぎり、(2)は(ゆっくりとではあって)もいつか一巡する。30年経って団塊の世代がいなくなり、さらに30年経って、私のような団塊ジュニア下限の世代が地上を去れば、人口構成はいずれは安定する。そのときも、まだたぶん原油は枯渇していないと思うし、あるいは、太陽が地上にエネルギーを投下してくれつづけている限り、エントロピーの増大を遅らせるような技術開発の余地もまだあるのだろう。ようするに、総需要なんか実はほっといてもそのときになれば自動的に回復する。それでも、私たちがいまさらあらためて思い知ったのは、「そうはいっても資源はいつかなくなる」ということのリアリティなのだと思う。

そんなわけで、私たちは、その「いつかなくなる」ことを前提として、事業の選別をはじめつつある。たとえば、ビッグ3はたぶんビッグワンくらいになるだろうし、トヨタは見たこともないようなストップ安に。ソニーもパナソニックも東芝も(日経新聞があれだけ必死で期待感を煽ってるのに)やっぱりよろしくない。もちろん、当の企業の人々からすれば経営の話になるんだけど、巨視的にみれば、人類が、車とか家電って本当に必要なのか?と思い巡らしはじめているって話なわけで(あ、東芝だけは原発も作ってるからそれとはちょっと別の話もあるのか……)。

そう思うと、やっぱり、貨幣の供給も、需要の創出も、投資の促進も、その「いつかなくなる」という最期の日までに、できるだけ極端に不幸な人が出ないようにするための「地均し」と考えるしかない。その「地均し」は、「今」をみたときのX軸Y軸上だけじゃなくて、「未来」を見たときのZ軸上にも広がってるんだっていう。

もちろん、そういう意味でやっぱりどうにかしなくちゃということの大事さはいささかもかわらない。人間ひとりの一生はそんな大局的な30年単位での景気循環なんか待っていられないほど短い。だからこそ「今」はものすごく大切だ。でも、それはもう調子の良い攻めの話じゃなくて全部守りの話であるべきなんだ。つまり、誰かが不幸にならないように「守る」、そのための話。具体的な施策の内容以前に、まずそういうことを見てるかどうかってことはとても重要で、結局、そこが頭にあるかどうかってのは、話をきいていればおのずとわかってしまう。

なぜなら、人類は無限に振り出せる打出の小槌を持ってないから……って、これ、きっと不況のたびに何度も言われてきたことなんだろうけど。

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すぐ忘れそうになる備忘録

嘘やごまかしをしないように生きようと思っていると、いつのまにか目を三角にして、眉をひそめて怖い顔で暮らしていたりする。嘘をつきたくないのは真実が知りたいからだし、私の知りたい真実は、どうすればこの世の苦しみを少しでも背負ったり、それで誰かに優しくできるか、といったことなのに、なぜか、そのためにしょっちゅう怖い顔をしている。

どっちを向いても気の重くなるようなことばかりだからこそ、どうでもいいおしゃべりをして屈託なく笑顔でいられることは貴重だ。でも、なかなか、本当に罪のないことなんて、そこらへんに転がってない。注意深く、強く、優しく、しかも楽しく、そのうえどうでもいい、なんて、そんなことはそうそう見あたらない。誰かが笑えないときは、かわりに笑ってあげなきゃいけないとは思うんだけど、気がつくと妙に深刻ぶったり怒ってばかりだ。

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