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自分の問題

その人が口にしているものが、形式的に扱っているだけの他人の問題なのか、それとも自分の問題なのかは、「ちゃんと自分のこととして考えている」という口先の宣言によってではなくて、その踏み込み方でわかる。

「ディベートのルールさえ満たしていれば1mgも同意できない意見の持ち主とも対話できるからディベートは良いものだ」という友人の言葉に、私はその場でうまく即答することができなかったけれども、そこにはひどく形式的で浅薄な思考しかないと感じた。

結局のところ、彼にとって「1mgも同意できない相手」というのは、まさしくディベートのルールを守るべきではないと考えているような相手のことではないのか。だとすれば、彼が言っているのは、「1mgも同意できない相手でなければ、1mgも同意できない相手とも対話ができる」ということでしかない。

そんな論点先取の仮定上の話に、一体どんなリアリティがあるというのだろう。私には、どうしても彼がそのことについて本気で信じようとして、真剣に考えているとは思えない。少しでも想像力を働かせて考えれば、そういう誤謬に気がついて、論理的にでもそうでなくても、うまくいってもいかなくても、その人にとって大事なことなら、なんとかこれを乗り越えようとするはずだと思う。でも、ここにはそういう形跡は見られない。

自分の問題はつまりその人にとっての現実そのものなので、そこには当然のようにそうした想像力が働くから、こんな明らかな違和感を見落としはしない。だけど、他人の問題はそれにくらべればはるかに雑に扱われる。雑に扱っているかどうかは本人にしかわからないことではあるけど、一定以下の誠実さしか持たない思考は、それなりの説得力しかもたない。

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