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Egoistic Community

なにもかもわずらわしくなって逃げ出したり投げ出したいと思っているときの私にとって、全能感に満たされて精力的に活動しているときの私の存在は、とても遠いものだ。そういうときには、どうして自分があのようでありえたのかがわからないし、その状態を思い出すことにすらしんどさを覚える。

でも、そういう時間がなぜつらいかというと、「そんなことをしていてはお前は駄目だ」という声がどこからともなく聞こえるからだ。周囲からあれこれ言われるのが怖いということもあるけれど、なにより重いのはそうした自分自身の良心の呵責というやつだ。

その一方で、健康な人間が人格的な一貫性を保って破綻せずにいられるのは、こうしていつでも異なる精神状態の自分からの声が聞こえているからでもある。どんなに耳を塞いでも、落ち込んでいるときには立ち上がれという高圧的な声が聞こえるし、高揚して活発に動き回っているときなら休ませてくれという救難信号が聞こえる。それはきわめて厄介なことだけれど、裏を返せば、それ自体が健全の証でもある。

ところが、こうした自分の声は苦痛の源泉そのものでもあるので、現状を維持しようとする力が働いて、人は可能な限りこれを無視しようとする。必要以上の苦行に打ち込んでみたり、精神活動のレベルを落として引きこもったり、というのは、その現れでもある。そこで苦痛が受容できる水準を超えてしまったり、これを無視しようとする力が過剰に強まると、人格はバランスを失って荒廃し、限界を超えた場合には、解離性障害などの変容によって、かろうじて精神活動そのものが完全な機能停止に陥ってしまうことを阻止しようとする。

そもそも、苦痛に対して叱咤や逃避をもって対すること自体、筋の良い話ではないのだろう。自分の人格は自分の思い通りのものではないし、無前提に矛盾のない一貫性を持っているわけでもない。だからといって、ままならない部分を切り離したり無視することなどできるはずもない。

私の中の彼らは、放っておけばいつでもお互いを無視しようとするけれど、いくら互いを疎んだり恐れたりしたところでそれは消えてなくなったりはしてくれない。きっと彼らは、互いをいつでも気にかけ、互いを良く知るようにつとめ、一方は他方を助けてやらなければならないのだ。強くあるときこそ弱い自分のことを思い出してその重荷を引き受けてやるべきだし、弱くあるときは強い自分の声にできるかぎり耳を傾けて助けを求めるべきなのだろう。

すべてがうまく回っているときには、できれば弱い自分のことなど思い出したくもないものだけど、どんなに無視してもいつかはかならず交代して、弱い方の自分のターンがやってくる。強い自分は、弱い自分の何倍も強い。もっとも近くにいるそいつが助けなくて、いったい誰が弱い自分を助けられるだろうか。自分自身の内にある弱者すら無視して生きようとするなら、自分自身の外にいる他者との間にはどんなことが起きるだろうか。それは、文字どおり他人事ではないのだと思う。

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