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問題にとりくむ、という問題回避法

閉じられた空間で熱心に議論すること。

なにも、他人を斜めから見おろして冷笑したいわけじゃないのです。それが必ずしも無意味なことばかりだと思っているわけでもありません。それでも、はてな村だとかmixiコミュだとか、あるいは自分のリアルでの環境とか、さまざまな場所で無限に繰り返されるそうした情景に、そこに自分が参加していようがいまいが、ときどきどうしようもないほどの苦々しさを覚えるのです。

「祈りをささげるときには座ってするべきか横たわってするべきか」といった類の、パリサイ人的な論争は、当人たちが重要だと考えていることの外側にある、(おそらく本来とりくむべきであるような)よりクリティカルな問題に触れることがありません。

われわれの中にいる「怠惰な働き者」は、もっとも気の重いことを巧妙に避けて、やりやすいことばかり熱心にやろうとします。つまり、ものを考えたくないときには、「議論」もまた、思考停止のための方便にすぎないことがあるのです。

それが「より重要な何か」をサボるための口実にすぎないかどうかは、その行為にどれだけの人数が真剣に血道を挙げているかということとも、そこにどれだけ立派な理論武装があるかとも、社会通念上そしりをうけずにすむことかどうかとも、まったく関係のないことで、行為の渦中にある当の本人が判断するしかないことです。

このことは、その行為が「議論」でも「仕事」でも「勉強」でも、その対象が「サブカル」でも「企業」でも「天下国家」でも、あるいは他のどんなことであっても変わりません。何であれ、そういう意味で「安全」なことなど存在しないので、それがいつのまにか「なにかをしないで済ますための方便」に成り下がっていないかどうかは、自分で監視するよりほかありません。

この判断ができるのは本人だけなので、そこには「一般論」も「基準」もありません。しかし、それでもなお、白熱しすぎる論争に過剰にコミットすることは、この意味でしばしば非常に疑わしいものであり、たまに距離を置いたり口を噤んだりして、自分たちの頭に冷水をあびせてみるべきじゃないのか、と叫び出したくなるのです。

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