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理不尽な怒り

6年前に、私は大切な友人の一人を事故で失った。その次の年に、私の母は自ら命を絶った。私はずっと暇さえあればそのことばかりを考え続けてきた。いまだにあれらの死がいったい何なのかはわからない。それでも私の中で根本的に何かが変わらざるを得なかった。

そして、共通の友を失った他の友人たちが、まるで他人事のように私の話を聞く姿を見るにつけ、私は言い知れぬ深いいらだちを覚えるのだ。きっと、彼らにとってはあの死は死ではなく、ニュースや新聞で見たどこかの遠い他人の出来事とそう変わらぬ程度のことでしかなかったのだろう。

そういった詰問をすると、感じ方は人それぞれであって、誰もが同じように考えるわけではないだとか、私の発言が「倫理的」なパターナリズムにすぎない、といった返答をされるのだが、私には、他人事ではない出来事について、そのような言葉を吐くこと自体がありえないと思っている。そんな、ちょっと気の利いた小学生でも吐けそうな薄っぺらな屁理屈に、一体全体どんなリアリティを感じろというのだろうか。

私ごときの生乾きの見識などどうでもいい。世界には自分の力ではどうしようもないこともあるし、どうしなければならないという決まりがあるわけでもない。なにより、私には他人の本当の心などわからない。それでもなお、彼らもまた友人を失って何ごとか思うところがあるなら、私がそれをまりっきり感じ取れないということはないはずだと思えて仕方ないのだ。沈黙ならその沈黙の表情の中に、饒舌なら饒舌の中に、いずれにせよ、思いがあるならその形はおのずと見えてくるはずだ。

そもそも、彼らの返答は、いつも「私の言葉に対する反応」でしかない。私が正しいとか正しくないとか、そんなことを聞いているんじゃない。彼らの答えはまるで見当違いだ。ただ単に、目の前で言われたことに、その場で反応しているにすぎない。

私は、意見を認めろとか尊敬しろとか、そんなことを言いたいわけじゃない。ただ、彼らが何を考えたのかを聞きたいだけだ。もし考えたことがないのであれば、きちんと向き合って考えるべきだと言いたいだけだ。彼らは、それを考えることが苦痛だから、私に何か言い返して、それで事を済まそうとしているだけに見える。その小賢しい怠惰、惰弱、不誠実は、私にとって理解不能で、恐ろしく不満なものだ。

そして、なにより一番わからないのは、私自身、なぜそのことにここまで怒りといらだちを覚えるか、ということなのだ。

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