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2009年3月

「理念」と「現実」

「理念」を語ることは必ずしも悪いことだとは思わないのですが、やはり直接の利害関係でつながっていない対象については、どうしても見落としが多くなり、その姿に事実よりも願望の占める割合が高くなることを避けられません。

もちろん、直接の利害関係で結ばれたものだけが「現実」であって、それが「理念」に勝る、というような思考は短絡的で貧困なものですが、私たちは、自分を脅かす「敵」、たとえば、自分がインパラで同じサバンナにライオンがいるようなとき、ライオンについて議論するよりも多くライオンの動きや姿を見ようとはするでしょう。そこには、甘い見通しや願望の入り込む余地はありません。

ただし、それでもなお、一見非合理に思えるリスクに身をさらしながら、理想をおくことはありうると思います。逆に、そうでなければ(つまり、ただ生存可能性の高低だけが「現実」であるなら)私たちはなにも人間なんて面倒な生き物の面倒な生き方を無理にすることはないでしょう。

むしろ、人間やその社会が、「要するに○○でしょ?」と言えないような面倒な生き物で、厄介な存在だ、ということもまた現実であって、しばしば「過酷な現実」と称される過度の単純化も、願望の投影と同程度に、見落としているものが多すぎるというだけなのですが。

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閑に大声

退屈を持てあまし、現実が理念にすりかえられ、その虚偽を内心理解しているとき、人は声高になります。

黙れ。通らなくても誰にも言われなければ通ったのと同じことだ。それが何か?

そうなのですか? 誰にも? 本当に?

うるさい死ね。

…こうした場合、彼は間違っているわけではありません。ただ、「私」が言葉になり、概念になった瞬間、指し示そうと思ったものとは別のものになってしまうのです。

「AでもBでもない」は言葉になった瞬間に新たな「C」と呼ばれてしまいます。「AでもBでもCでもない」は「D」に。以下、そのくりかえしです。

完結した言語空間とは「私が対象化して切り取ったものすべて」つまり、切り取られているのに全体であるということを前提しているためです。それこそが、言葉そのものと言っても良いくらいです。

つまり、「あなた」や「他の誰か」ではない「私」を言葉で指し示すことはできない。そして、そのことが納得できないために黙っていられないのです。

退屈は人を饒舌にします。退屈なうえに饒舌な人は、理念を排して現実を探るのが良いです。

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ひとりごと

・いろいろなことにすっかり嫌気が差してしまって、とてもニヒリスティックでよくない状態。かように人間はフィジックスの奴隷なのです。

・自ら議論をし、あるいは誰かの挑発に乗ることきには、品性を常に省みるべきなのです。場合によっては、そもそも相手の土俵に乗らないことが何ごとかを語るわけです。

・たとえば、小泉批判をしたいならB層という言葉を使うべきではないのです。造語とはスキーマを集約したものです。とりわけこうしたバズワードめいた造語を共有するということは、ろくでもないスキーマを共有するという行為にほかなりません。

・政治について語ることも、自身の不幸について語ることも、獲得した象徴資本の誇示に成り下がることは少なくありません。理解したいのか、伝えたいのか、見せびらかしたいのか。自分自身の監視の目はえてして甘いものです。

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